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宿屋四郎兵衛の辛談辛語
No.7
「資本の論理は、『経済合理性』への渇望にある」
(問屋連盟通信 2009年9月1日より)
問屋連盟通信 - 辛談辛語倒産は経営者の責任
 江戸時代以来の日本資本主義によって育まれてきた思想的特徴は、極めて健全な考え方にあると言えるだろう。
 その代表的な例が「倒産は経営者の責任である」とするもので、経済や景気のせいには決してしてこなかったことである。むしろ、倒産は経済合理性を無視した所為による自業自得であり、反対に経済合理性の推進で危機を乗り切ってきた経営者は大いに称賛されたのである。
 江戸から明治時代への変革期に三井組と共に新政府を支えた小野組の功績は、まさに豪商に相応しいものであったが、明治7年、この小野組倒産に対する世評は冷淡そのものに尽きる。
 経済的合理性に基づかぬ経営は、倒産して当然と当時の人々は評している。ある意味小野組は、明治維新という大変革に即応できなかった犠牲者であったろう。しかし、倒産はあくまで小野組トップの責任であり、決して政府の責任とは世間は考えなかった。
 この日本人が持つ「経済合理性への健全な考え方」が、次第に歪み始めたのは太平洋戦争後のことであった。いわゆる財閥解体とそれに伴う経済体制へのGHQ・政府の介入である。
1929年の世界大恐慌を乗り越えた「ニューディール政策」の成功例を持つアメリカは、日本の資本主義を遅れたものと見、アメリカ型資本主義思想を流入させた。
とはいえ、戦後日本経済を復興させた原動力には、質素・倹約に努め、私欲を絶ち、強欲を戒めた土光敏夫氏を始めとした多くの経済界のリーダーが存在したことを忘れてはならない。

正三(せいさん)と梅岩
江戸時代に生まれ育った「日本資本主義」は、海外から輸入されたものではなく、また、幕府や藩主から押し付けられた考え方でもない。まさに、日本の庶民の中に生まれ、育まれ、そして成熟してきたものだ。
鈴木正三の「宗教的労働論」(「農業即仏行」)、『四民日用』という職能論は、石田梅岩によってさらに深められ、庶民の労働の支えとなってきたのである。
梅岩は、著書『倹約斉家論』を出版した直後の延亨元年(1744)に世を去るが、「没後宅に遺りし物、書三櫃、また平生人の問いに答へ給ふ語の草稿、見台、机、硯、衣類、日用の器物のみ」で、不必要なものは一切なかった。梅岩の生涯は、何の波乱もない平凡なサラリーマンであり、簡素・清潔であったと山本七平氏は『日本資本主義の精神』と述べられている。
梅岩死後、弟子手島堵庵によって「石門心学」として世間に流布されて行く。最初は関西を中心に、また中澤道二が江戸日本橋通塩町に参前舎を起こし、さらにその弟子達による心学黌舎の遊説は、21カ国に及んだ。

“政治責任は問わず“
 やがて「石門心学」は、町人・庶民の学に止まらず、武家社会にも広まっていく。京都所司代松平伊豆守や大坂町奉行久世伊勢守といった支配階級まで講義を聴いたと言われている。藩士教育のために講師として心門学者を招いた例も多い。
 梅岩心学の典型的な特徴は、「政治的責任を問う」といった発想が全くないことである。
 江戸時代には、町人の中から「体制の変革」を求めるという発想が全く生じなかった。江戸中期と言えば、すでに実権は町人が握っており、「日本国の内実は、すべてこれ町人の所領なり」といわれる実力を町人は保持していたのにである。
 梅岩は、社会の安寧・秩序を担保してくれる者こそ武士階級にあり、といった発想から一歩も出なかったのである。
 明治以来、軍人によるクーデターこそあったものの、「市民革命」が起こらず、また、今日の政治の混乱、リーダーシップの無さ・無責任さを露呈する政府に対してさえ、かなりの寛容さを示す国民の意識には、梅岩以来の考え方が根底にあるのであろうか。

“人智”を磨いた時代
 町人のみならず、虐げられた農民をも含めた四民すべてに、安寧と秩序を担保すべき藩主こそ、江戸期における首相であり経営者でなければならなかった。
 町人に求められた「資本の論理」と同様に「武士の論理」が必要となる。戦乱なき時代になっては、もはや武士団の存在価値はなく、武士自体が「資本の論理」に基づき、経営者、もしくは経済官僚とならざるを得なくなっていく。
江戸時代を「停滞の時代」と考えることは誤りである。江戸期ほど「人智」を磨き、人間を成長させた時代はなかった。特に、「清貧」を尊び、倹約を奨励し、欲心・強欲がいかに人間を貶めるものであるかを教えてきた時代なのだ。
そして、内需中心に日本経済が成長した時代であることも特筆できる。
 近年、」米国式金融資本主義・市場原理主義を謳歌し、その果実を貪った心ない政治家・実業家達の「私欲」「強欲」が排除されていった根底には、江戸期の思想が今なお人々の心に健在であることを示している。

越後上杉家の軌跡
 上杉家の隆盛は、越後を根拠地とした戦国期の勇将謙信公に始まる。
三百万石と佐渡の金山を領し、信長を脅かす最強の戦国大名でありながら、欲心に薄く、「義」が彼を突き動かす「強者の論理」である。謙信没後、後継ぎを巡る内紛と秀吉の圧力で会津百二十万石へと移封され、さらに関ヶ原では石田三成方に与し、米沢三十万石となる。
 さらに四代目綱勝に嗣子がなく、取り潰しになるところを「名門」ゆえ十五万石に減知の上、吉良上野介の子を五代綱憲として迎えることになる。戦国最強の武士団の子孫は、藩規模の縮小にも関わらず越後時代の藩士数を抱え、謙信公以来の重臣達の認識は三百万石時代そのままである。
 藩主綱憲は、名門吉良氏の出であり、何かと格式ばった経費を要求して止まない。そのため、藩財政は壊滅的状態に陥るのである。

鷹山(治憲)の治績
 治憲17歳の時、小藩の日向高鍋城主秋月種美の次男から上杉家第九代藩主として養子に迎えられる。上杉家財政破綻の時である。この時点で、治憲の取るべき道は二つ。
 一つは、謙信公以来の武士団を生産活動に参加させ、藩自体を経営体として確立するか、もう一つは、そのまま放置して藩を破産させるか。
 鷹山が採った手段は、最も家臣団の反対が予測された前者であった。鷹山は自らの立場を心得、決して藩主としての命令によらず、何事も皆に相談し、「全員の総意」であることを目指す。低姿勢に低姿勢を重ねて、反対派重臣に財政立て直しへの協力を懇願する。
 まず、第一は、藩主の生活費、年俸千五百両を二百九両に、奥女中50余人を9人とするとともに、自らの愛馬に人糞を運ばせる。家老は鍬を握って泥田に入る。そこには私欲なく、徹底した「経済的合理性」に基づく武士としての「資本の論理」の実践である。
 鷹山は、嗣子に次の言葉を残している。

・「国家は先祖より子孫に伝候国家にして、我私すべき物には無之候」
・「人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候」
・「国家人民のために立てたる君にて、君のために立てたる国家人民には無之候」
 
現代に残された施政者・経営者への鷹山の「遺産」と言うべきであろう。
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