司馬遼太郎の世界
NHK大河ドラマ『龍馬伝』は、司馬さんの世界観ではなかったが、昨年からの年末特別番組『坂の上の雲』は、まさに司馬さんの歴史観に基づいたものである。
坂本龍馬なる人物、もちろん以前から有名ではあったが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で龍馬は一躍幕末を代表する人物となった。私も司馬さんの長編から短編、随筆から講演録に至るまで、いつ、どこで、何を読んだか不明ながら、随分とお世話になったことだけは間違いない。
それだけに、これから書く内容の多くが、司馬遼太郎氏の小説か、なにかの、どこかに書かれていた文章の影響を多大に受けているが、その出典は物理的に明らかにはできない。
とにかく、司馬さんの影響を受けていることだけは間違いがないことをお断りしておきたい。
尊王攘夷論と「水戸学」
私たち日本人は尊王攘夷論といえば、徳川幕府崩壊の根底をなすものと信じて疑わない。
が、そもそも尊王攘夷論とは、中国の「宋学」を発祥とした思想である。「宋」は、北方の遊牧民族たる蒙古に滅ぼされた漢人の国家であって、宋朝末期に宋人のインテリ達によって打ち建てられた理論だ。
「夷」とは、モンゴル人であり、「皇」とは宋朝の滅ぼされた皇帝を指している。「王」こそ、大切にして尊敬すべきものであって、「覇」というのは卑しむべきもの、という中国古来の国家観に基づいている。
宋が滅んだ後の、室町時代に日本に伝えられた史観であったが、混乱する足利幕府のもとでは定着した史観とはならなかった。
結局、日本では「宋学」を継承した「水戸学」で『大日本史』の中核をなす史観として尊王攘夷が取り込まれるという皮肉な形になっていった。
水戸学での「夷」とは幕府を指すという奇妙さだ。
沸騰する尊王攘夷論
日本人の考え方の面白さは、この尊王攘夷論に表れている。
幕末において「黒船」が来航したお陰で、「夷」は米英露等の紅毛人に当てはめ、「皇」は、中国始め海外の皇帝とは性格の異なる天皇(立場は、神主さん、日本人の精神的秩序の中心)を意味するものと、当時の知識人は考えた。15代将軍慶喜ですら尊王攘夷論者であったと言われている(彼は、水戸藩の出身)。
天皇の存在から幕府も諸藩も、草莽の志士たちも、攘夷を巡って激しく殺し合い、幕府と雄藩の駆け引きから幕府打倒の尊王思想へと一気に流れは加速していく。
明治維新が革命であったかどうかは、異論もあるが、日本を統一国家とするために、天皇様にはご面倒ながら皇帝になっていただく。そうなれば、徳川といえども「どこの馬の骨」とも分からぬ出自だけに、土民に至るまでがすべて平等となる。
そこに「一君万民」の思想が誕生してしまったのだ。
大老井伊直弼、登場!
滋賀県所在の彦根城は、関ヶ原で敗れた石田三成の佐和山城の近くに位置し、琵琶湖に面して築城された。
いうまでもなく家康の意図は京都、および大坂を押えることにある。
井伊掃部頭家は酒井雅樂頭家と並んで徳川家の専務取締役的立場で代々世襲だ。両家以外に大老となった家は幕末まで存在しない。権勢を誇った柳沢吉保や田沼意次ですら老中止まり、井伊家は特別な名誉と権能を有し、他を圧する名門家だ。
井伊家を考える上で重要なことは、戦いが始まれば徳川軍の先鋒になるという宿命を負っていたこと、いわゆる“赤備え”具足を殿さまから足軽までが身につける「徳川最強の軍団」なのだ。
そして、幕末に至り歴史のいたずらか、井伊直中の14男であった直弼が奇跡的に13代の藩主となり、強い使命感を持って安政5年(1858)大老職に就く。
直弼自身の性格もあったと思われるが、彦根藩の置かれた幕府内の地位から「安政の大獄」という激烈極まりない政治行動を強行するに至る。
桜田門外の変とは?
吉村昭氏の大作『桜田門外の変』が映画となり、現在、大ヒット上映中である。
事件は、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が、登城する彦根藩の行列に切り込み、大老直弼を暗殺したもの。当日は、季節外れの大雪で視界が悪く護衛の供侍は、いずれも雨合羽を着て、刀の柄には袋をかけていたため襲撃側にとっては有利な状況であった。
襲撃を受けた井伊家側は、藩主直弼を含めて8名が死亡、13人が負傷した。家名を傷つけられた井伊家側は、水戸家への襲撃は断念したものの、護衛に当たった軽傷者は全員切腹、無傷の藩士は全員斬首の上、家名断絶、処分は本人のみならず親族にまでおよんだという。
幕府は、この事件を事故として処理し、彦根藩に泣き寝入りさせた。
“赤備え”井伊家面目
坂本龍馬の画策で徳川慶喜は大政奉還したものの、龍馬が幕府を救ったとの誹りを受け、中岡慎太郎と共に京都・近江屋で暗殺される。
薩摩・長州藩は当初の計画通り、兵を率いて京都に入り、天皇を擁して大坂にいる徳川慶喜軍と対峙することとなる。だが、薩長軍3〜4千人に対して新撰組、会津藩を先陣とした幕府軍5万人と形勢は圧倒的に幕府軍有利な状況だ。
ここで勝敗のカギを握っていたのは、言うまでもなく彦根藩の動向にある。彦根藩の徳川幕府における立場から、また井伊直弼の強烈な使命感からすれば一気に彦根から京都に突入しなければならない。
井伊の“赤備え”軍団が殺到すれば、大坂の徳川本陣との挟み撃ちで薩長軍は壊滅する。そのために、伊藤博文等多くの論客が井伊家の説得に当たった。
日本人が求める“大義”
彦根藩は、藩主直弼を暗殺されながらも、その恨みを晴らすことも叶わぬまま、藩論はまとまらず、迷いに迷った末、藩主や家老だけではなく35万石、1万人以上の藩士全員の意見を聴取することにした。「札入れ」の結果、徳川のために最後まで戦うべしとの意見は、たったの3票であった。
当時の日本人にとっては、なにが正義であり、大義であったかということを理解する上で、この彦根藩士達の「札入れ」結果こそ見逃せない事実だと考えねばならない。
これは、司馬遼太郎さんが述べられているように、「徳川への忠誠心も正義だがそれは小さいことであって、新しい時代に参加することこそが、本当の正義だという考え方」が、日本人の支配的思想であったのだ。
桜田門外の怨みではなく、新しい時代に乗り遅れてはならない、という考えで彦根藩の藩論は統一された。
もう一つ注目すべきことは、封建時代の末期であったとはいえ、藩主や家老が藩の方針を決定できずに、藩士全員の「札入れ」で藩論を決定したという事実だ。
資本主義化成熟の今日とは変わらぬ日本人固有の思想かもしれない。時の政府に対する支持率で政権が倒れ、また消費者の意向を無視した企業は市場から淘汰される運命にある。
新しい時代創造の息吹
確かに、司馬遼太郎さんの小説には、こんな日本人の持つ「新しい時代に対する期待」、「新しい時代を共に創り上げていきたい」という日本人に共通した考え方が核となっている。
戦国時代の末期、徳川家康と石田三成に代表される反徳川勢力の争いとなった関ヶ原の戦いにも、その事例を見ることができる。
当然、この戦いの結果で、豊臣政権が徳川政権に代わるのを承知しながらも、多くの豊臣恩顧の大名たちが徳川方に付いた。加藤清正、福島正則など、石田三成への反発があったとしても秀吉の遺児秀頼のために働くべきはずであった。
それにも関らず「明日からは徳川の世だ」というところに正義を感じた豊臣恩顧の大名達は徳川のために強大なエネルギーを沸騰させる。モラルという側面から見ると問題は感じながらも、後世の日本人は加藤清正、福島正則らの行為を許してしまう不思議な感情がはたらいている。
むしろ、石田三成側に対して非同情的であるところに日本人の不可解とも言える感性がある。
あなたはどういう行動をとりますか?
司馬遼太郎さんの何かの随筆かコラムかは不明ながら、こんなことも書かれていたように記憶している。
それは、彦根藩の「札入れ」との関連記事であったかは不明だが、例えば、鳥羽伏見の戦いの段階で全国民(といっても、当時は武士階級のみ)に「薩長を主体とした京都政権を認めますか」とアンケートを出せば、多分九割九厘「認めない」と回答する。薩長政権を認めたくはないのが、本心なのだ。
だが、「京都で天皇を擁している薩長政権が、新しい時代を創ると思いますか」と問えば、大多数が「思います」と答えたろう、と述べられている。
そこで、次に「あなたはどういう行動をとりますか?」と聞いてみる。十人が十人、間違いなく沈黙する。といって、動かないのではなく自身は無言のうちに新しい時代の流れに投じていく。新しい時代に向けて行動を開始しているのだ。
それが日本人なのだ。
新しい時代の風に聞け
問屋街のような、ある意味江戸期以来の伝統を保持した組織が、今なお存在することは奇跡でもある。
しかし、それは問屋街自身の工夫、努力、また今は退店を余儀なくされた商社、経営者の方々の言葉に言い尽くせない思い入れも重なり合って、時代と共に生きてきた証明でもある。
そして、何よりも全国の小売店さんが問屋街を必要としてきたという事実そのものも見逃せないはずだ。また、今日に至るも地方に所在する小売店さんが持つお客さん(消費者)達がこの問屋街に無言の支援・支持を寄せ貫いてきていただいた結果であるともいうべきだろう。
有難い話ではある。確かに、売上高が減少し、利益もそれ相応に減少しているとはいえ、まだまだ、努力次第でかっての栄光には届かないものの流れの変わった日本経済、あるいは世界経済全体の中では、大いに恵まれた立地であることに変わりはないのだ。
“新しい風”を興せ!
誰もが人生に対して「希望」を持ち、生きている。「希望」ある限り風雲に乗じることはできる。背景となる時代毎に「希望」は変わるけれども、努力なしに“新しい風”を感じることはできまい。
過去にしがみつくことなく、次代の方向をしっかりと掴み、可能性を高めることで、一致団結して“新しい風”を興す時は今をおいて無い。