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1.近江商人について | 2.幻の三中井百貨店
「近江商人の系譜」小倉栄一郎著 〜日経新書より
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★豪商中井家
 典型的な日野商人で、享保年間初代源左衛門良祐の創業。関東を振り出しに、仙台に主力店を構え、中国から九州にまで出店を進出させ、分かっているだけで20余店、枝店数知れずという一大支店網を形成し、各種産物廻し、醸造業で産をなした豪商である。 
 初代良祐は90歳の長寿で、瀬田の大橋を独力で架け替えるなどの社会事業にも多大の貢献をした人である。壮年期には全国長者番付に名前が載ったという。中井家が最も充実した三代目は、画家であり随筆家司馬江漢によって「30万両の富商」(「春波楼筆記」)として紹介され、三井家に次ぐ豪商といわれた。
(『近江商人の系譜』小倉栄一郎著・日経新書より)

日本型資本主義の精神ともいうべき、先達としての近江商人の思想、戦前・戦後の日本経済を創造した実業家・哲学者の思想を取り上げ、言葉の意味を21〜22世紀の人々に通用するように解説を加えていくものです。

その第1回に「近江商人」について紹介していきます。
本来は「江州商人」と呼ぶのが正しいのですが、現在では一般的に「近江商人」と言われています。もちろん、商人といわれる職業を生業としたのは、近江の人ばかりではないにも関らず、あまりにも江戸中期より「近江商人」の名が有名なのは、彼らの活躍ぶりもさることながら、彼らの営業手法に何か他国の商人とは異なるものがあったが故であろうと考えられます。
近江商人と並び称された「伊勢商人」と比較して、その営業手法を考えてみますと、俗に「近江泥棒、伊勢乞食」といわれたような違いが明らかになってきます。

※(1)伊勢商人は、お伊勢参りの参道での商売が中心であり、近江商人は全国を股にかけて「歩いた」ビジネスであるという説、(2)伊勢商人は「貧乏な乞食のように出納にうるさい」
近江商人は「がめつい商売」との説、など諸説あり、必ずしも明確な定義があるわけではありません。江戸期の人々の感情から、こんな例え話が残されてきたのでしょう。伊勢商人の代表格は、三井越後屋です。

貨幣経済が浸透していない江戸期において、商人の存在価値自体が理解できない諸藩の農村部においての営業活動そのものが、必需品との引き換えとはいえ農民のなけなしの金を巻き上げていくように見えたことが、近江商人が 「泥棒」とののしられる由縁であったろうことは予測できます。
江戸時代は、各藩毎の閉鎖的自給自足的経済圏が根幹です。藩内の需給調整は、城下町や地場の商人が担当していますが、自藩の産物を他藩に販売し、他藩の産物を自藩が買い入れるということは、原則藩自体が行うという「公的藩際経済活動」(小倉氏の著書より)が基本です。ところが、近江商人は藩を越えて全国を股にかけ、甲の産物を乙地に運び、乙の産物を丙地に運ぶなど、その産物を必要とするところに供給していったのです。これが、近江商人の基本ビジネスとなる「産物廻し」(私的藩際経済活動)です。
なぜ、江州人だけがこんな事業が可能であったのかは、江州人に特別の商才や能力があったということではなく、江州特有の政治的事情によるとの説明以外にはないのです。
※近江の歴史的・地理的位置が、大きく影響していると考えられています 
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(掲載地図参照『近江商人の系譜』小倉栄一郎著・日経新書・ページ30より)

しかし、商売の基本は「信用」です。江戸末期には、日本全国網の目のように張り巡らされた近江商人の出店地(支店網)が証明しているように、いかにかれらの営業活動が人々に支持されたかが分かります。
例えば、先に荷物を目的地に送り付けておき、関連店に預け、後から乗り込んで売り捌くという大量販売方式、そこでは信用のおける同郷商人に委託販売をお願いするケースも
多かったようです。輸送手段は、船、牛車、荷車などを最大限に活用しています。海難事故も多い時代です。「海上積金」という、今でいう海上保険制度まで存在しています。
 
まさに、近代的商人像の原形がそこにはあるのです。結果として、日本の流通機構を構築し、未知だった経済社会なるものを日本人に示したという意味での近江商人の功績は大と言えるでしょう。

【商内(あきない)は牛の涎(よだれ)】
 言葉の意味は堅実に、細く、長くという趣旨。経営は、急成長を望むものではなく、薄利でいいからコツコツと資本の増殖を図るという近江商人の経営姿勢を示している。江戸という時代背景をみれば、近江商人の歴史における「企業の発展は牛の涎」のようにあるべき、との考え方は、強く頷ける。
 経済の成長が見込めない今日においては、「身分不相応な“奢りを禁じ”“長寿”“節約”“勤勉”を説く(これを近江商人は“しまつしてきばる”という)」思想は、極めて有効な経営手法なのだ。

【利は余沢、三方よし】
★商人とは、「世の物資を有無相通じるのが任務である」ことは現代にも通じる。
では、「利益」をどのように考えるのか、については、17世紀イギリスで発した清教徒革命の思想である「物資の流通に従事するのは、神の御旨に適った社会的役割であり、流通活動の結果、神から恩寵として与えられるものが、利益である」との、欧州における近代商業観と近江商人が言うところの「利は余沢」とは通じるところがある。
近江商人の言う「余沢」とは、ついてまわる“うるおい”というほどの意味ではないかというのが、滋賀大学小倉栄一郎教授の考えである。
その利益については「勤は利の本なり、能勤(よくつとめ)ておのずから得るは真の利也」であり、有無相通じる職能に努力すれば利益が生まれる、しっかりと頑張れば自然と生じてくるものが、本物の利益なのだと言っているのだ。
「三方よし」とは、初代伊藤忠兵衛の言う「商売は菩薩の業」「商売道の尊さは売り買い何れをも益し、世の不足を埋め、御仏の心にかなうもの」という。
共存共栄の精神を表わしている。

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