近江商人中江四兄弟が創業し、大陸に覇を唱えた百貨店の興亡
『幻の三中井百貨店』〜朝鮮を席巻した近江商人・百貨店王の興亡〜
林 廣茂著
(株)晩聲社・2004・2月
江戸初期より日本全国に「持ち下り荷」をビジネスモデルとしつつ発展を遂げた近江商人が、数多くいたことはよく知られています。主に繊維関係の問屋業を主とした商人が中心ですが、伊藤忠商事や丸紅のように戦後、世界的大商社に変身・発展した企業もあります。
小売業では、高島屋、白木屋(後に、東急百貨店日本橋店)などのように、百貨店として大をなした企業も輩出しています。その中に、以下に紹介する「三中井百貨店」という異色の百貨店も存在しました。
□消えた三中井百貨店
「かつて日本の敗戦まで朝鮮・満州・中国にまたがる広大な地域に、合計18店舗もの店舗を擁した『三中井百貨店網』があった。創業者は近江商人の二代目中江勝治郎の長男三代目勝治郎(善蔵改め)、次男西村久次郎、三男富十郎、五男準五郎の四人兄弟である。
日本の百貨店史に大きく刻み込まれた業績を残しながら、彼ら四兄弟の名前はおろか、『三中井』という社名すら現代の日本人の記憶にはない。彼らの出身地・滋賀県で尋ねても、たまに高齢者から『そういえば三中井という名前をずっと以前に聞いたことがある』といった程度の反応しか返ってこない。いったい三中井はどうして消えてしまったのか?
『三中井』は明治三十八年(1905)朝鮮・大邱(テグ)で雑貨・小間物屋として創業された。徹底した拡大・競争戦略を実践して呉服店となり、六年後には京城進出を果たし、昭和四年(1929)には京城最大の商店街である本町通りに『三中井呉服店本店』を開設し、昭和八年にはさらに新築・増築を重ねて、朝鮮では最大級の『三中井百貨店京城本店』を構えた。
昭和二十年八月の敗戦の時点で、朝鮮全土に十二店、満州に三店、中国に三店、さらに日本国内を含めて多くの傍系会社を持っていた。朝鮮や大陸に進出していた三越百貨店をはるかに凌駕するほどの、日本人経営による最大規模の百貨店グループを築き上げていたのである。ピーク時で従業員四千人、年商売上高一億円(現在価値でざっと5千億円)の規模を誇り、中江四兄弟は朝鮮・大陸の『百貨店王』と称されていた。
この三中井百貨店網が日本の敗戦とともに崩壊した。そして、戦後、後継者によって再建されることもなく、明治以来四十年間積み上げてきた『三中井百貨店』の『暖簾』の信用、その経営技術・ノウハウが打ち捨てられ、朽ち果てるように消滅した。なぜ、三越や高島屋などのように歴史を生き抜くことが出来なかったのか?現在では文字通りの『幻の三中井百貨店』である」。_同書8〜9ページ
□三中井との出会い
評者の「私事」で恐縮ですが、私の父親は滋賀県蒲生郡小脇村の生まれで、実家が江戸時代の庄屋で地主あったにも関わらず、神崎商業学校(戦後八日市中学に吸収され滋賀県立八日市高校となる)を卒業して大正十二年(1923)小杉合名会社に入社しています(本社は、滋賀県神崎郡竜田)。同年9月1日関東大震災が起こります。社長の依頼を受けて堀留町の東京店から、浜町にあった社長宅まで様子を見に行きます。復命すべく会社に戻ろうとしますが、多くの罹災者の群れに阻まれ、押され押されて気がついたら赤羽駅に着いていたということです。
連絡の方法もないまま、成り行きで汽車に乗り滋賀の自宅に帰り着いた由です。一人息子でもあり、後継だけに両親は必死に引き止めますが、再び上京します。小杉合名会社は、その後昭和八年に「大阪店」をオープン、関西に進出します。父親は大阪店の支配人となり、朝鮮に進出した三中井百貨店との取引を強化したようです。父親はほとんど自ら過去を語らず、評者も自宅の写真帳から父親の神崎商業の卒業写真や小杉合名時代の同僚の写真を見て、「これは誰々」とか断片的に話を聞く程度でしたが、日本とは異なる風景の写真もあり、その時に「三中井百貨店」の話を聞いたのでしょう。三中井の名が刻まれています
昭和二十年の敗戦間際に祖父が死去し、父親は直ぐ小杉に戻りたかったようですが、農地解放令が進駐軍から出され、父親は心ならずも「農地改革委員」の地主代表として地元に残り、小作側との交渉に10年を要します。6町歩程度の農地が「地主は最高で1町歩」と縮小され、その1町歩も父親は耕作しませんから小作の方々に耕作依頼をするなどで時日を要してしまい小杉産業(株)に復帰したものの、戦地から帰還した後輩たちの後塵を拝することになります。大阪から出征した社員の復帰はごく一部であったようです。
東京中心の会社となった会社には、戦前の三中井百貨店の記録は消え失せており、評者が入社して以降も「三中井百貨店」の名を聞くことは皆無でした。昭和六十一年(1986)頃、小杉産業創業百周年記念誌作成に取り掛かったのですが、戦前の大阪店の記録はほとんどなく父親の写真帳から三中井百貨店の写真(京城本店らしい?)と取引の事実のみを記念誌に掲載したことを記憶しています。
□勝次郎がめざしたもの
大正十三年(1924)6月、勝次郎は通訳小泉精三、後に繊維や家電で成功した卸業小泉重助の3人で、神戸からアメリカの百貨店や小売業の視察旅行に出発し、アメリカ大陸を横断して同年9月横浜に帰着しています。乗船期間(32日)を除くと「81日」間にわたる旅行を決行しています。
サンフランシスコでは、エンポリアム百貨店とマーケット・ストリートを視察、店内の大きさ、豪華さ、綺麗さ・明るさ、豊富な商品の品揃え、女性販売員の熱心さ・親切さに、商店街の看板・広告の斬新さ等を克明に記録しつつ、応用の可能性を模索しています。
シカゴは、マーシャルフィールド百貨店で20基の「上り・下り」するエレベーターに、また女性によって運転されていることに驚きます。陳列品が戸棚の奥の鏡に映って立体的に見分けられる気配りに感心しています。
シアーズ・ローバック(通販会社)は、九階建ての煉瓦造り。間口2町(約218メートル)奥行き1町(108メートル)の巨大さに業嘆、商品も小物から家電・自動車まで食料品を除くすべての品揃えに、「小売業かくあるべし」と記録。注文品は120人の男女が手早く包装し、店内引き込み線を活用し1日200貨車で全米に発送していることに仰天します。
ニューヨークは、メイシー百貨店で買物をしますが、シカゴのマーシャルフィールドより「貧相なり」。ワナメーカー、オールドマン、サック、キンベル、ブラザーの各百貨店を視察しますが、簡単な描写で終わっています。フィラデルフィアでは、ワナメーカー百貨店を視察しています。本格的な百貨店経営ノウハウを学ぶ旅行だったわけです。
巨大なアメリカ文明・文化から多くを学び、「かくまでも物豊けき あめりかや。いかに我世のさちのすくなさ」を実感したと同時に、後の三中井百貨店の『憲則』『三中井要覧』(現在の経営理念、就業規則に当たる)の範として取り入れています。
□拡大と成長を支えた「革新的戦略システム」
昭和四年(1929)「三中井呉服店京城本店」ビルが完成します。三越に遅れること13年、丁子屋に8年、平田屋にも3年の遅れで百貨店化へのスタートを切ります。目的達成に向けて、東京、京都、京城を舞台にして朝鮮総督や朝鮮軍司令官、満洲国外交部高官、関東軍司令官などとの親交を深め、ひたすら御用商人として巨大化していきます。
昭和八年(1933)「三中井百貨店本店」の新増築が完了します。地上6階地下1階の白亜の近代ルネッサンス様式のビルディングで、旧館と合わせて土地808坪、延べ建坪2504坪の巨大百貨店となります。店内中央に朝鮮では初めての2階までのエスカレーターが設置されていたのです。
昭和三年(1928)興南(フンナム)店、緘興(ハムフン)店、四年には群山(クンサン)店、七年(1932)光州(クァンジュ)店、大田(テジョン)店、さらに満洲国建国の翌年昭和八年新京(現・長春)店を、同時に平壌店、大邱店を、十二年には釜山店を改装・新築しています。
株式会社三中井は、法律上の本社を京城府本町一丁目四五番地としますが、総本社は滋賀県金堂の勝治郎宅に置きます。京都本社を含めてすべて「無線」で結ばれるという当時では画期的な戦略システムが採用され日常的指示、報告が行われていました。「無線」による情報システムが採用・活用できたことは、当時の関東軍や朝鮮軍の軍事情報システムとの関連が推測できます。
情報の中身や情報の精度、スピードにおいて、競合他社を大きくリードしていたことは、容易に推測できます。他社にない強みとして、日本商品の品揃えにありました。本場京都の呉服ファッションの豊富さが、三中井のマーケティングの最大の強みだったと言われています。朝鮮と日本国内との流行の時差は1年くらいあったようですが、朝鮮の流行を予測しての大量仕入れを京都で行ったことで、他社を圧倒したといいます。軍需品の納入においても、京城や新京での製造活動によって、確実性の高いビジネスとなりました。
□創業者四兄弟の死と後継者の器、そして消滅
長男三代目勝治郎は、経営の中枢・精神的支柱としての存在です。戦略行動の中心は三男富十郎が担い、二人の異なったカリスマ性をお互いが認め合い、補完し合っていたのです。
両者の中間でバランスを維持し、三中井の「利」を固めたのが次男久次郎でした。カリスマではない「信頼できる管理者」だったのです。五男準五郎は京城本店長を務めます。
三中井の経営は最初から消滅まで、創業者四兄弟とその親戚・縁者によって固められていて、社員の採用ももちろん地元である神崎郡の出身者が多数を占めていたのです。ここにも三中井百貨店の限界があったものと考えられます。近江商人の限界説の極端な事例ともなっています。
筆者は、「三中井ビジネスが敗戦と同時に崩壊したのは、営業基盤が突然なくなったのだから当然であるが、崩壊したものを再建することなく放置すれば遅かれ早かれ消滅する運命にある」と述べています。
営業基盤は失ったとはいえ多額の資産は総本社の滋賀県神崎郡金堂に集められており、後の京都丸物百貨店や下関大丸百貨店になる候補地が「再建」のための店舗として準備されてはいましたが、結局四代目勝治郎と兄弟・親戚の反目・いがみ合いにより、大陸に覇を唱えた百貨店網は消滅するに至りました。
再建のために、朝鮮から引き揚げてきた約400名の社員によって努力・画策はされたようですが、豊富に残された資産は四代目勝治郎によって、京都祇園の花街で消え失せたとも言われています。
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