今塾 by 今宿博史 - 営業戦略おもてなしショップ - IMAJUKU by IMASHUKU Hiroshi
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宿屋四郎兵衛
「辛口ワンポイント」
(2003.9.1〜2005.4.20)

No. 26
友の死
それは、突然にやってきた。あまりの唐突さに唖然とせざるを得ない。“死”に「なぜ」も「どうして」もないのは判っているつもりでも、それでも「なぜなんだ」、あんなにも頑健で、エネルギッシュな男に突然訪れた死、ではあった。多分、医者に掛かったことも近々には無かったろう、常に雄弁であり、現場に入らない限り語ることを許さない「見ずして語らず」を信条とするプロのコンサルタントであった。危機意識は人一倍感じるタチで、真剣に事業に取組まないと思われる経営者、オーナーに対する批判は、舌鋒鋭いものがあった。
「みんな勉強しなくなったねぇ」、嘆きとも怒りともつかない言葉、やや諦めムードが感じられるようになったのは、本当にここ数ヶ月のこと。「秦野さんらしくないですね。横山町馬喰町の皆さん、必死ですよ」「知ってますよ。あなたより私の方が、ここは長いんだから」と、無念そうに呟く。

硬骨のコンサルタント
 (株)ブレーンネット代表取締役秦野恵次さん。享年63歳、早すぎる死であった。三宅島育ちで、早稲田大学から財界の重鎮原安三郎(日本化薬社長)の門を叩いて秘書になること6年、ミカレディにスカウトされてファッション業界入り。ミカレディ成長神話の立役者の1人でもある。その後、東北の雄として成長するライオンドーにスカウトされ入社、営業全般を担当する。業績も上がり、船井幸雄先生主宰の「コスモス会」に会社を代表して参加していたこともあり、先生に乞われて日本マーケティングセンター(現船井総合研究所)に入社するに至る。
 衣料品中心に小売業が成長したよき時代、船井流経営手法が当りにあたり、特に“晩期商法”の伝道者、船井理論の実践第一人者として注目された秦野さんの活躍は目覚しいものがあった。「周りの人は、みな師」。出会いによって道を選ぶことを船井先生から学んだ、という。入社10年後の平成2年4月退社。同年8月独立。

秦野さんとの出会い
 秦野さんとの出会いは、氏のライオンドー時代であったろう。私が勤務していた会社との取引きを求めてお見えになった。何となく親しみの持てる方で販路拡大を目指していた当社としては願っても無いことと、直ぐ商売が開始されたと記憶する。
次にお会いするのは、秦野さんの船井総研時代になる。余談ではあるが、当社は船井先生との繋がりが古く、先生が設立された「コスモスクラブ」にはスタート時からのメンバーであった。当社の故成宮専務(業界では、メリヤスの成宮、として鳴らしていた先輩)が先生に傾倒していたこともあって、当時、鉄鋼会館で開催される「コスモス月例会」に「君が行って来なさい」と命令され、殆ど出席させられた。ニチイの西端さん、ヨーカドーの伊藤さんなど、錚々たるメンバーに圧倒されたが、若かったこともあり、用意される“松花堂弁当”と船井先生の魅力に引かれて、大変な勉強をさせて頂いた。先輩に感謝である。
ある日、突然に秦野さんが現れ、「船井で売れ筋商品のセミナーをやる、就いてはメンズを担当して欲しい。もうパンフレットに印刷してある」との性急さ。以来、秦野さんに多くのアドバイスを頂いた。特に、印象に残るのは当社に未開拓の「専門店・小売店ルート」。それでは、「コスギ・リテーラーズ・サークル」(KRC)を作ろう、との発案、そして率先しての実行・実現。多くの小売店さんを自ら走り回り、口説いて頂いた。立上げは、産経ホールに船井先生を迎えて大盛況のスタートが切れた。秦野さんとは、その後も折に触れアドバイスいただく仲できた。
私が退社し、コンサルタントとして独立したいと相談した時も、真から今後の働き場について心配頂いた。性急さの中にも細やかな神経の持ち主であり、頼まれたことには、常に真剣で「秦野さん、この件はもういいから」と言っても何時までも配慮を見せる方であった。

問屋街への想い、横山町馬喰町への愛着
 卸売りの原点としてこの街が好きだったんだなぁ!とつくづく思う。勿論、事務所はこの街に置いてこられた。日頃、オーナー、経営者の方への評は厳しかった。「こんなこと問屋街にとって、何にもならないよ」「何考えてるのか!」との心配で機関銃のように言葉が迸ることも度々。
 「ファッション販売」や「繊研新聞」などを通じて多数の現金卸に対する提言も展開されてきた。曰く、“強い現金卸を開拓して最盛期に「筋物」を手に入れよう”(「ファッション販売」03年12月号から)「小売店は現金卸にこんなメリットを期待している。
(1) 欲しいものや売りたいものが探せる、拾える
(2) その商品を仕入れることで自店の商品回転率が上がり、来店頻度が増える
(3) 数多く回って売場、商品構成が組みやすい
(4) 時代に合わせた「勢いのある」商品に魅力を感じる
(5) 多品種・小ロット時代での仕入が出来る 」
秦野さんの数々のアドバイスを謝し、心から哀悼の意を表します。秦野さん、有難う。

東京問屋連盟:問屋連盟通信:2004/10/20掲載
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