|
|
日本繊維新聞(ニッセン)投稿集
|
26. 2010.07
「1910〜2010年への移り変わり」 |
最近、いろんな場所で話をさせていただく時の「枕言葉」として、「今年は、2010年ですね。100年前の1910年って何があった年ですか?」と問いかける。
即答いただけるケースは、まずない。本年度の大河ドラマ「龍馬伝」や同じNHKの年末大河では、日露戦争の秋山兄弟が取り上げられ話題を呼んだが、20世紀初頭の出来事は意外と人々の記憶にないらしい。日本人にとって、幕末から日露戦争までを近代日本の栄光の時代と記憶しながら、それ以降の、原爆やB29の大空襲に至る悲惨な道を辿った日本については“思い出したくもない”歴史なのであろう。
1910年とは、日本が韓国(朝鮮半島全体)を植民地化した、いわゆる「日韓併合」の年なのである。この100年の間の歴史的事実は、日韓両国民に多くの拭いがたい傷跡を残してきたことを忘れてはならないということが、私の話の根底である。
今日の韓国の経済的躍進は、日本の官民挙げての支援の賜物との考え方もあるだろう。今なお続く“韓流ブーム”には、過去の歴史を忘れさせる日韓の文化交流が背景にあり、また、メイド・イン・コリアの商品も街に溢れている。サムスン電子の薄型TVは、世界第一位の売上高を誇っていることも周知の事実であり、ファッション業界における韓国勢の躍進も著しい。
百貨店「三中井」の消滅から学ぶべきこと
三中井(みなかい)百貨店とは、日本が敗戦を迎えるまでの間、朝鮮・満州・中国の中核都市を中心に合計18店舗を展開していたまぎれもない日本の百貨店チェーンである。創業者は、近江商人の二代目中江勝治郎の長男勝治郎、次男西村九次郎、三男富十郎、五男準五郎の四人兄弟である。
三中井の創業は、1908(明治38)年、朝鮮大邱(テグ)での雑貨・小間物屋に始まる。その後、業容を拡大し呉服店として6年後には、京城(ソウル)に進出、1929(昭和4)年、京城最大の商店街本町通りに「三中井呉服店本店」を開店、新築・増築を重ねて、朝鮮最大級の「三中井百貨店京城本店」を構えるに至る。
1945(昭和20)年、敗戦の時点では、朝鮮全土に12店、満州に3店、中国に3店舗を展開していた。ピーク時で従業員4,000人、年間売上高1億円(現在価格で約5千億円)に達し、同じく朝鮮、満州等に出店していた三越百貨店を凌ぐ、日本人経営による日本最大規模の百貨店グループに成長していた。この三中井百貨店Gは、敗戦とともに何ら手が打たれることなく“うたかた”のように消滅してしまう。
敗戦にもまさる流通激変の中で、業態としての百貨店が「三中井」と同じ運命を辿ることがないように祈りたい。 |
|
|