今塾 by 今宿博史 - 営業戦略おもてなしショップ - IMAJUKU by IMASHUKU Hiroshi
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染協ニュース(日本染色協会 広報誌「染協ニュース」)投稿集

vol.252 2010 MAR
“百貨店”は地場産業化せよ

(社)中小企業診断協会東京支部
中小企業診断士 今宿 博史

1. 百貨店が無くなる日

『百貨店が無くなる日』(渡辺一雄著・実業の日本社刊)が出版されたのは、1993年のこと。著者は、(株)大丸に勤務すること28年、当然のことながらデパートの中で行われている種々の仕組みについて精通されていたことが予測される。それだけに、内側から見た百貨店経営についての課題に説得力があるはず、との評判もあって業界内において当時かなりの話題を呼んだ。
 著書は、「この本を読んで、もし、“古い”という人がいたら、その人こそ百貨店の“現状”を知らない人だと、冒頭、あえて挑戦的なことを申し上げておく」との一文から始まっている。著者は、昭和27年大丸に入社、事情あって中途退社されているが、売場課長時代、「ドレッシング(架空売上げ)の名手」と言われたと自嘲気味に述べられている。恐らく、売場を預かる管理職で、筆者の言うドレッシングに手を染めなかった百貨店マンは皆無であったかも知れない。もちろん、多くの管理職は善悪の意識なしに“会社の慣例として”行っていたであろうことは十分に推測できる。
 というのも、著者のいう「ドレッシング」なるもの、少しでも百貨店ビジネスに関わった者なら、別段百貨店マンではなくとも、百貨店に出入りする仕入れ業者にとっては周知の事実でもあった。百貨店協会が、当時、毎月各店舗にマル秘FAXされる25日前後の各百貨店別(個店別含む)の昨年対比、予算対比などの数値を見れば、残りの数日にこれが達成するとはとても考えられない状況であるにも関わらず、結果的に各店・毎月達成する(この数値は、当時各店からの報告に基づき、協会が取りまとめておられたものと思う)。
 百貨店の売上計上は、チェーンストア等とは異なり、レジで打ち込む売上げは少なく、また売上計上方法は各社で必ずしも統一されたものでないことも一般的に知られたことであった。それだけに、意識的であったかどうかは別としていわゆる、悪質な「ドレッシング」が横行していたことは、想像に難くない。
 そして、筆者は、百貨店が抱える最大の病巣は「ドレッシング」(架空売上げ)にあり、これとの剔抉することこそ百貨店を蘇生させる要因であると強調されている。売上至上主義が当然視された時代性を背景に考えれば、この指摘が誤っているとは言えない。当時の百貨店経営の認識からすれば正鵠を射たものというべきかもしれない。

2. 百貨店における真の病巣

 著書からは、当時の百貨店が直面していた苦悩を窺うことができる。目次からも、「経営を蝕む架空売上げの横行」「不正常に膨れ上がった“実績”」「カード乱発で焦げ付きが多発」等が列挙されており、バブル崩壊から日本の流通構造が崩壊していく真因が浮かび上がってくる。経営者の多くは、徒に売上高の競争のみに拘り、本来百貨店が持つべき姿を見失って右往左往する姿がそこには浮かび上がっている。
 同著「第三章 敗色濃厚となってきた紳士服安売り戦争」で強調されている現状は、「量販店の“激安”攻勢に守勢一方」であり、「自らの怠慢が招いた消費者離れ」と続く。そこには、「良品を廉価で」消費者のために提供していくべきと考える一片の百貨店創業の精神さえも窺うことができない。
 同著は、「第八章 今の大不況こそ再生のラストチャンスだ」で結ばれている。
 「私はそれでもなお、百貨店に明日はあると信ずる。ただし、口先だけでなく、文字通り“お客さまのための百貨店”になった百貨店にのみあすは拓ける・・(略)・・自分の力を知れば、返品なしの完全買い取りが理想であり、本来あるべき姿だが、今直ちにそれに踏み切ろうなどという身の程知らずなことはいえないはずである。力がつくまで当分は問屋さんの協力を仰がなければならない」
 「百貨店はスペース貸し業に堕落したなどといわれるが、それがお客さまのためなら私は甘んじて悪態をうけなければならないと思う」
 以上が、著者が百貨店の前途を憂えた内部告発ともいうべき趣旨となっている。しかし、今日の百貨店の置かれた状況から見て、本当の百貨店の危機はこの程度の売上改ざん「ドレッシング」の横行を止める程度のレベルであったのかどうかは、きわめて疑問とせざるを得ない。
現在の百貨店マンの多くが、『百貨店が無くなる日』の著者渡辺一雄氏の意見(1993年時)にどの程度理解を示されるかどうかは、はっきり言って分からない。とはいえ、この書の刊行以来も続く百貨店の凋落傾向を考える時、基本的に渡辺氏の考え方を多くは支持し、また“お客さまのために”と信じて疑わない社員が大半であると考えられる。この内部告発のために書かれたとも評価された同著が、結果的に何ら百貨店経営の革新を提案することなく、結果として極めて保守的な、かつ現状を肯定する著作に終わったことに無念の思いを禁じ得ないのは事実である。
 百貨店経営の真の病巣は、「商品の買い取り、リスクからの逃げにあり」「しかもその事実を“お客さまのため”と社会全体を欺瞞してきたツケにある」ことが、きれいに抜け落ちているのである。
※図1.「全国百貨店の売上高増減率の推移」

3. アパレルメーカーの戦略

 百貨店が百貨店であった時代、明らかに小売価格は百貨店自身が決定し、かつ一度買い取った商品を製品不良でもない限り、シーズン末に問屋に返品することはあり得なかった。その代わりに、百貨店バイヤー(当時は、まだ仕入係などと称した)の商品を見極める目は厳しく、情実に左右されない「ホンモノ」商品がセレクトされた。百貨店との取引口座を持つことが、問屋にとって自社扱い商品の「勲章」でもあり、当然、金融機関からの信用そのものと直結したのだ。
 戦後における百貨店の成長は、後にアパレルメーカーといわれるようになる百貨店問屋の戦略と不可分の関係にある。
 その先陣を切った企業こそ、今なおアパレル業界に君臨するオンワード樫山に他ならない。いわゆる「委託販売制」(樫山方式)に踏み切り、同社の発展を決定づけた戦略であった。このことは、同時にその後の百貨店経営の在り方を決定づけた。
 戦前から、買い取り仕入れを基本とする百貨店にとって、戦後の“モノ不足”時代は衣料品の仕入・販売に多大の労苦を要することとなる。1947年の衣料切符制復活(1950年撤廃)は、衣料品を持つ問屋の立場を有利とし、一転、百貨店と問屋の立場を逆転させることとなる。戦後の混乱から立ち直りの遅れた百貨店業界(米国進駐軍に建物を接収され、営業再開の遅れた銀座の百貨店の例もある)にとって、樫山の提示する「委託販売制度」に対して多くの百貨店が導入に踏み切った事情は想像に難くない。
 ※委託販売制度とは、仕入先から商品を預かり、実売(店頭で実際に消費者が買い上げた時点)した後に代金を問屋に支払う制度のこと。小売店としてはリスクがなく、欲しいものは直ぐに店頭に並べることができ、百貨店の売り場は豊富な商品で溢れることとなる。在庫は、問屋の所有である。

委託販売制度は、一方において問屋側にも多大の利点をもたらすこととなった。その後の消費拡大の時代の波に乗って、百貨店は小売企業の頂点に立ち、日本の流通構造変革のリーダーシップを取っていくことになるからである。店舗面積の拡大とともに、全国各地への多店舗戦略が、百貨店問屋の多くに企画機能を持つ「アパレルメーカー」としての立場を与え、百貨店内シェアを拡大させ、アパレルによる小売企業支配の立場を不動のものとしていく。
 委託販売制度の波及によって、もはや問屋にとっては百貨店仕入担当の意向を気にすることなく、思い切った量販体制を維持することが可能となり、何より「小売価格」そのものの決定権を手に入れたことが、アパレルメーカーの流通における覇権を握ることを可能とした。
委託販売制度の導入こそ、需要がはるかに供給を上回る高度成長期の戦略として、問屋企業をアパレルメーカーへとその業容を拡大していく端緒となった。オンワード樫山はその後、婦人服、こども服、きものなどの総合アパレルメーカーの地歩を固め、1964年東証1部に上場する。 
 樫山、三陽商会、東京スタイル、レナウンルック等百貨店を主力戦場としたレディス系企業の急成長は、1970年代初頭からの「ミッシーカジュアル」開発によって、その立場を決定的なものとする。

4. レナウンの凋落

 「ニットご三家」と称されたレナウン、ナイガイ、小杉産業の凋落・消滅にも触れておきたい。
 ニットは、元々メリヤスといわれる編物商品である。
 メリヤス(ニット)製品は、下着、靴下などの日用雑貨商品であり、戦後においても百貨店の主力販売商品として、その売場面積は今日の比ではない。百貨店の主力売上月となる7月「お中元」、12月「お歳暮」の主力アイテムそのものであり、紳士下着、靴下の「箱入れ」商品は、贈答品の主力を形成してきた。
 下着、靴下類は、長く百貨店では買い取りが普通であって、納品伝票も文字通りの「買取伝票」(後の「返品条件付き買取伝票」ではない)、返品は極めて微量に止まり、問屋にとって粗利益こそ低いものの、確実に利益の取れる安定した商品であった。
 百貨店における扱い高は、「つるし」等と呼ばれた織物製品の紳士服や婦人服を凌駕していたのである。
 メリヤスからニットへの変身は、1962年小杉産業が米国ジャンセン社とのライセンス契約により、水着、ポロシャツ等のカジュアルウエア(米国では、スポーツウエアという)へと進出したことに始まる。
 さらに、問屋からファッションビジネスへの変身は、レナウン(当時、レナウン商事)の動きが速かった。1961年には、早くもCMソング「ワンサカ娘」をヒットさせるなど、ニットを主力商品として、後のファッション企業への道をしっかりと歩み始める。テレビを巻き込んだ積極的広告宣伝活動の展開は、まさにモードの大衆化を生み出し、消費者に多くの夢を与えたといわねばなるまい。まだまだ繊維産業が紡績や化合繊企業等の川上素材産業が主導権を握っていた時代において、ブランドビジネスを確立していったのである。
 レナウンをレナウン足らしめた「アーノルド・パーマー」は、当初、東洋レーヨン(現、東レ)がライセンス権を持ち、多くの企業で扱われていたものだが、レナウンはこれを自社のオリジナルとして独占契約に切り替え、業界の地位を不動のものとしていく。米国ゴルフ界“ビッグ3”のブランド、「ジャック・ニクラウス」「ゲーリー・プレーヤー」から、「マンシングウエア」、さらにはテニスウエアをも含めた多くのワンポイント・ブームを演出し、新生百貨店の主力商品を生み出していく。
 同じ百貨店取引においても長く「買い取り制」を原則としてきた編物・メリヤス(ニット)商品と戦後間もなく「委託販売制」に移行していった織物(布帛系の紳士服、婦人服)とは、今日では考えられない取引条件に差があったのである。
返品を徹底して百貨店の「悪慣習」とするニット系企業と、返品こそ百貨店「店頭支配」の基本戦略とした織物系アパレル企業との間には、その後のファッションビジネス・モデルの成否に決定的な差が生じることになる。
 昭和50年代においてすら、ニット系企業の百貨店選別の基点は、「3悪追放」(すなわち、(1)返品、(2)値引き、(3)手伝い社員廃止、の3点)であったことを見ても明らかであろう。
 レナウン、ナイガイ、小杉産業等の凋落は、百貨店取引が買い取りから委託・消化形態に変化していったことに対応できなかったことがすべてではない。むしろ、総合アパレル化への時代適応力や社内の人材育成に問題があったといわねばなるまい。

5. 専門店化する百貨店経営

 昭和から平成へ、時代の移り変わりとともに消費の成熟化も進み、巨大化・多店舗化する百貨店に合わせて従来型の百貨店アパレルだけでは、百貨店の売り場も維持できなくなり、取引形態も「買取制」は形骸化し、「委託制」から「消化型取引」に収斂されていく。
 まして百貨店を脅かす新しい流通業態の驚異的な伸長は、百貨店を益々衣料品の専門店化へと追い込んでいくこととなる。圧倒的強みを持つ食品売場は、激しいスーパー攻勢にも関わらず、依然その強みを発揮しているものの、その粗利高に問題を抱えて利益面での期待はできない。紳士服売場もロードサイド店との価格戦争で一敗地にまみえる。子ども服分野もおもちゃ市場とともに、その成長性には限界がある。
 どの百貨店も、一斉に婦人服売り場の多層階戦略を取らざるを得ない状況へと移行していく。レディス売場の拡大だ。
※図2.「衣料品売上高の業態別構成比」(朝日新聞より)
 百貨店主力アパレルブランドに加え、ワールドやファイブフォックスの多ブランド導入、デザイナーブランドによる売り場構成、セレクト・ショップの導入、海外直営ブランド等の面積拡大、さらにラグジュアリーブランドの取り込みに躍起となった百貨店は自身の基幹売場「平場」を支えた専門商品問屋を見放し、その売場面積を圧縮していく。
自らの売り場支配権を放棄し、ひたすら、ただ多くの売上高を保証してくれる新興ブランド、海外ブランド等の導入に奔走し、そのことが“お客さまのため”であると信じて疑わない。これら海外ブランド導入は、百貨店側にとって値入率の低下となり(粗利率悪化)、そのマイナス面を取り戻すべく従来型百貨店アパレルの値入率を引き下げていく。

6. 厳しく問われる百貨店価格

 主力のレディス商品が、ターゲット、ブランドの細分化、ブランド毎の顧客情報の徹底にも関わらず、ヤング層の百貨店離れは一層加速し、頼みのシニア層からも百貨店小売価格に対する不信感が高まっている。
 ユニクロやポイント等のSPA企業の価格構造は、広く“お客さま”に知られるところとなり、加えて海外有力ファストファッション企業の進出が衣料品のトレンド・品質・プライス等の見直しを迫っている。
 かって、ロードサイド・メンズショップが百貨店紳士服売場を直撃した以上の衝撃を百貨店業界に与えている。レディス売場は、百貨店にとっての最後の牙城でもある(百貨店の1階を占める化粧品や地下の食品売場だけでは、もはや百貨店業態をなさない)。
※図3.「婦人服専門店の09年2月期決算」(繊研新聞より)
 東京スタイル高野社長は、「これ以上の製造コストの削減は無理。百貨店の顧客が満足する品質を保持しながら、価格を下げるためには取引条件の見直しが必要」、「百貨店が値入率を下げれば、アパレルは価値の高い商品をより買いやすい価格で提供できるようになり、百貨店の売上げも必ず浮上する」と強調している(繊研新聞6/24)。
 百貨店に残された時間は、決して長くはないことを認識すべきだ。
※図4.「大手・上場アパレルの最新業績と国内百貨店販売高」(繊研新聞調べ)

7. 百貨店は取引の原点に返れ

 百貨店を取り巻く環境について改めて説明するまでもない。流通業界における百貨店の立場は、もはや修復不能の段階にあると言えるだろう。
 百貨店業界の先行きに一筋の光を射したミレニアム・リテイリング(西武・そごう統合会社)は、セブン&アイの傘下に入り2009年には、ミレニアム・リテイリング、そごうと西武百貨店の3社は合併し、イトーヨーカ堂等のセブン&アイ傘下の一企業として同グループからの商品供給を受ける立場に変わった。百貨店経営の限界とも言える。もはや百貨店主導による「自主マーチャンダイジング」に本気で付き合うアパレルメーカーも存在しまい。
 他の大手百貨店同士による経営統合も同じ運命に陥る危険性は十分にある。
※図5.「百貨店大手3社の09年3〜5月期連結決算」(朝日新聞7/11付)
 百貨店再生への道は、小売業の原点に立ち戻ることである。
原点、すなわち「完全買い取り制」への回帰である。自社で売り切れる商品を、売り切れる量だけ仕入れるのである。

百貨店は、「商人」としての自負を持って、“お客さまのため”と称して、他を利用する、他人が得るべき利益を圧迫し、そこに自社の利益を構築するような姑息な手段は捨てねばならない。
 商人は、何故、利潤を得ることが認められるのか。日本資本主義の原点ともいうべき江戸時代の鈴木正三(せいさん)の思想『商人(あきひと)日用』は、ただ「一筋に正直の道を学ぶべし」であり、「正直の旨を守りて商いせんには、火のかはけるにつき、水の下れるに随いて、ながるるごとく、天の福、相応して、万事、心に可叶」である。
 また、同じ江戸期の石田梅岩は、「消費者への誠実」が第一であり、さらに「且(ソノウエ)第一ニ倹約ヲ守リ、是マデ一貫目ノ入用ヲ七百目ニテ賄。是迄一貫目有リシ利ヲ九百目アルヤウニスベシ」(経費を3割節約して、利益を1割減にする方法を取れ)と述べ、さらに「算用極メ外ニ無理ヲセズ」に経営すればよいのであり、ひたすら消費者に奉仕をすることを心がけ、欲心を出してはならないと戒めている。
 
 膨れ上がった百貨店業態が今更過去に帰れるわけがない、とは誰もが考える“常識”であろう。もちろん、一挙に業態を変換することは、多くのステークホルダーの手前、また、本当に“お客さま”への奉仕に徹することに繋がるかは疑問でもあろう。
 とはいえ、現在の百貨店の行く末は、多くのGMS、ショッピングセンターや駅ビル、ファッションビル、アウトレットモール等の業態に吸収されることであり、百貨店としての独自性は完全に消滅するものと覚悟しなければなるまい。外資やSPA業態、専門店アパレルチェーン、大手アパレルメーカー直営ブランドの“草刈り場”としての立場に甘んじるのか。
 百貨店とはいえ、もちろん百貨を扱う店舗などもはや存在しない。多くの百貨店メイン扱いの業種・アイテムを、カテゴリーキラー・ショップに譲り渡したことが、「消費成熟化」といった類の時代のせいにすることは簡単だ。とはいえ、その時点において、百貨店人が本気で“お客さまのため”を考え行動して、それらの競合店に立ち向かったのだろうか。はなはだ疑問だ。
 自社の売上高、利益高の前年比、予算比にのみ拘ってきたのではないか。

8. 百貨店は地域を育てよ

 地方経済が疲弊し、地方の商店街がシャッター通りと化した原因の多くは、大型店出店に反対した現地の中小・零細の小売業主の時代を見る目の狭隘さにもあっただろう。
それ以上に強行出店したにも関わらず、業績不振であっさり退店してしまったGMSはじめ量販チェーン店の無責任な放漫経営、加えてクルマ社会の到来とばかり、郊外型の巨大SC出店も“お客さまのため”、「奉仕の心」より、競合を圧倒しての売上奪取がその目的であったろう。
百貨店は地域に根差した小売店の範たるものでなければなるまい。
 百貨店の多くは、それぞれの地方において“さん”付けで呼ばれる。文字通り地方の誇りでもあり、その包装紙が何より“お客さま”にとって、送り主への敬意でもあったのだ。受け取る側にとっても、あの○○百貨店さんから「わざわざお送りいただいた」ことに無上の心遣いを感じたものだ。
この事実をすべての百貨店人は忘れてはならないのだ。
(1) マーチャンダイジングの基本は、自ら商品を発掘すること。売れ筋を追うのではなく、地域のシーズの発掘に努めること
(2) 仕入れの基本は、買い取りであること。自店オリジナル商品の開発は、ロットにこだわらない責任発注とし、全量引き取り、一切返品しない
(3) 原則は、従来の値入率を排除して、買値+経費+10%とする
(4) 支払い、納期などの公正取引を厳守する(「4つの義務」「11の禁止行為)
(5) 地域の特徴ある商品、伝統的に作られてきたものを地元の人々と共に取り組み、新しく商品化する
(6) 地元産地が生み出す商品を、地元を代表して他の百貨店に推奨販売すること
(7) 直接取引を原則とし、リスクを避ける取引形態は採らない
(8) すべて正社員で販売する
(9) 徹底的に全社のムダを排除し、コスト削減を図る
(10) 原則、経営陣を中心とする本部経費を一律3割減とする

 百貨店として従来の形態を維持できるのは、恐らく都心店のみと考えられる。大手百貨店の支店の多くは赤字店として閉鎖を余儀なくされよう。また、特徴の無い地方店の多くは、もはや救いようがないといった現状に晒されている。北海道の名門丸井今井、あるいは福岡の名門岩田屋といった企業ですら、中央の大手百貨店グループから積極的な救済の声は掛らないのだ。
 大手アパレルメーカーからも引き上げられ、結局、種々の専門店チェーン店を導入せざるを得ないテナント業が主となってしまう。これが“お客さまのため”「奉仕の心」なのか。
 今や、流通業はファンド会社の売り買いの対象にすら成り難いと言われている。
 
 地方、地方には独自の染色技術、織物、編物の特殊技術が数多く残されている。しかもこれらの技術を若い人材達が再開発すべく立ち上がっている。
 これら技術の結晶を、従来の流通ルートに乗せて、とにかく「東京で売りたい」、「メジャー化させたい」などと成果を急がせてはならない。地域、地域の百貨店マーチャンダイザー、デザイナー達の手で、丁寧に、地域で、しかも「廉価で販売」していくことが、百貨店再生のスタートであり、本来の百貨店の社会的使命なのだ。
 期間限定の「催事商品」として、短期利益を求めては、「草木・鉱物染め」も「粘土によるマーブル染め」も、また「有松鳴海紋」素材も、メディアの話題づくりに終わらされてしまう。
国費を使ってメジャー化しようとの誘惑も後を絶たない。公的資金の援助を受けることは決して悪いことではない。しかし、そこに心の緩みが生じ、結果的に“線香花火”に終わることを過去の事例からしっかり学びとることだ。ここに地域に根差す百貨店の社会的使命がある。
地域が活性化し、再び若者が地域で活躍できるかどうかは、百貨店自身の課題として重く受け止めねばなるまい。

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