今塾 by 今宿博史 - 営業戦略おもてなしショップ - IMAJUKU by IMASHUKU Hiroshi
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宿屋四郎兵衛の辛談辛語
No.4
「世界的大不況を乗り切る資本理念」
(問屋連盟通信 2009年7月20日より)
問屋連盟通信 - 辛談辛語混迷の消費者心理
 店頭の状況の悪さは、一層深刻化している。安さを求めて、すべての商品が採算をも度外視して店頭に並ぶ。消費者もまた、安ければすべて「よし」を追い求めているかに見える。
 何がマトモかは不明ながら、「モノづくり」へのこだわりなど、日本人が本来持っていた倫理観は、確実に失われつつあると言えそうだ。
 政治の混迷、リーダーシップの不足が、状況の悪化に拍車をかけている。『百年に一度の危機が命綱』(朝日新聞)との落首に揶揄される麻生自公政権の延命策が、益々日本経済だけでなく、広く社会全体に閉塞感をもたらし、日本人が本来持ち続けてきた倫理観を崩壊させている。
 今年になってから何度目かの「誰でもよかった」的無差別殺人劇が続いているし、毎日「これでもか」と報じられる事件の数々、これは一体われわれに何を訴えているのであろうか。
 5月の完全失業率は5.2%と、4月より0.2ポイント悪化。政府・日銀の経済「下げ止まり」説も自画自賛で信憑性は極めて薄い。「給付金」やら「エコポイント」等の景気刺激策も、まさにカッコ付け、誰もが望む本質的解決には程遠い。
 厳しさを増す雇用不安に加えて、雇用者所得の減少は容易に回復するとは思われない。日本人が持っていた倫理観は何処へ行ったのか。

江戸時代への理念回帰
 「江戸時代を知ることが、現代を知ることになる」とは、山本七平氏が『日本資本主義の精神』(カッパビジネス・光文社刊)の中で述べている言葉だ。
 先日もある業界紙記者から聞いた「今後のファッションビジネスについて」という講演の結びに「江戸時代を学ぶことに当面打開のカギがある」とのご託宣。この記者が、山本七平氏の書物を読んでいて話したのかどうかは未確認ながら、不思議と私自身が「その通り」と納得してしまった経緯がある。
 江戸時代は、日本の歴史の中でも誠に興味深い時代であって、「鎖国」政策で海外との交易を閉ざしながら、いわば「日本人による日本人のための自前の秩序」を築き上げた時代であった。この時代は、実に三百年も続いた。
 江戸時代とは、元禄(1680〜1709)と享保(1716〜1736)の間を境に前半と後半で大きな違いを見せる。
前半は、安土・桃山時代を継承しているだけに、まず秩序の回復、政治経済体制の確立が優先され、経済成長期を迎えていた。
後半は、一転して経済の停滞期に入る。教育が普及し、文化興隆とともに庶民の生活水準が向上していく。こうなると「士農工商」が明確化されていた時代ではありながら、武士が帰農して農民になり、また江戸に出て町人となる武士も増えてくる。この逆も大いにあったろうと思われる。
戦後の高度成長期から消費が欄熟して、経済全体が低成長期に入った現時点の状況と近似しているのだ。

石田梅岩「石門心学」
江戸時代後半以降、石田梅岩の考え方は、町人世界に止まらず広く一般の人々の間に広まり、多くの人々の心に浸透した。いわゆる、「石門心学の祖」と称される人物の思想である。
梅岩の思想(と言っていいかどうかだが)は、明治維新から現在に至るまで、日本人の心に根深く残っている「働くことの倫理観」である。決して、日本人の多くが「梅岩の思想」として認識しているわけではないが、知らず知らずの内に「身に付いてしまった」考え方だ。
梅岩は、今でいう一介のサラリーマンであり、主家の倒産で失業もし、他の店に再就職せざるを得なかった経験を持つ。決して、エリートとは言えない平凡な人物であったと言われる。
1685年、京都府亀岡市の「中流・中産階級」ともいうべき標準的な家庭に生まれ、育った。彼の幼少期における唯一のエピソードとして知られているのが、『山へ栗を返しに行った』という逸話である。
「十歳の頃、山へ遊びに行き、栗を五つ、六つ拾って来た。父に見せるとどこで拾ったのだと聞かれる。そこで、父の持ち山と隣の他人の持ち山との境にあったと答えた。すると父は、お互いの境界にかかる木の枝の状況から、この栗は他人の山の栗に違いない、そんな栗を拾うことは許されない、直ぐに山に戻して来なさい」と諭される。梅岩は、父から言われた通りにしたという。 
これが日本人の原点であり、江戸期の「当たり前の論理」であったし、この精神が永く日本人の倫理観を形成してきた。

「徹底した理屈屋」梅岩
 梅岩が、この世を去るのは齢60の時、一生を「栗を返しに行った」姿勢を変えることはなかったという。その生涯は、「偏屈者」ともいうべき理屈者で通した。とにかく、理詰めで徹底的にものを考えないと済まない性格の持ち主であった。
 梅岩が成人した時、既に時代は、享保の世であり、全員が年功序列的昇進と、定年後の子会社行きともいうべき「暖簾分け」が保証されるだけの成長が、もはや望めない時代に入っていた。
 閉塞感に陥った梅岩は、27歳の頃、一種のノイローゼを体験する。なぜなら、性格的に娯楽や遊興で自分をごまかすことができない性格を持っていたからだ。
 彼の唯一の趣味は読書であったと言われている。偏屈ゆえ(当時として)朝早くから、夜遅くまで、とにかく読書三昧の日々を送っている。本を手放したことはないと言われるほどの読書家だ。

「人間のあるべき姿」
彼が一体、どんな傾向の本を好んだかは全く明らかではない。いわば「雑学の徒」であったのか。
 彼には、当然学歴は無く、また取り巻く環境から考えれば、その読書の範囲は当時流行した「仮名草子」(範囲は広く、今日言うところの「劇画」に類するもの、啓蒙的、教訓的なハウツーもの、お茶やお華、作法・礼式・謡など)であったと考えられる。
 梅岩には、『都鄙問答』という世に知られた著作もあるが、彼の思想そのものは、決して誰かから学んだものではなく、彼自身が人生を生き抜く中で自らの規範とした「庶民思想」そのものであることに留意しなければならない。学者とは言えず、単なる「町の評論家」でもあった。
 同時に、あくまで商家の番頭として「経済的合理性」を徹底して追求した。「やれば何でも儲かる式」の発想から、「義を取る」、「人間のあるべき姿」の探求と、「自らがその理想の人間になる道」を生涯かけて追い求めていくのだ。
 この梅岩の考え方は、日本人の心奥に脈々と受け継がれている。混迷する現代日本人の閉塞感を打破する思想として、再び注目されることを祈りたい。
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