今塾 by 今宿博史 - 営業戦略おもてなしショップ - IMAJUKU by IMASHUKU Hiroshi
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宿屋四郎兵衛
「ずばり!単刀直言」
(2007.6.20〜2009.5.20)

2008年 新春号
“人があつまる”問屋街!

「日本橋バビロン」
 小林信彦さんの近著「日本橋バビロン」、文藝春秋社刊の表紙タイトル帯には、「かってわが国有数の盛り場でありながら、震災と戦災により、その輝きを失った日本橋」との表現がある。
 ヘェ〜!輝きを失った日本橋って、なんだ。思わず丸善で手に取ってしまった。日本橋ってどうしても三越や高島屋のある室町通りの周辺を思い浮かべる。とても輝きを失っているとは思えないよ。しかし、一方で住所表示では馬喰町や横山町の頭に「日本橋〇〇町」と必ず日本橋がつく。そう言えば、地名上の日本橋は広い。
 創業享保8年、江戸、明治、大正、昭和と九代続いた老舗和菓子店<立花屋>の栄華と没落の叙事詩の舞台が「日本橋バビロン」である。
 この本を通して、現在の東日本橋一帯は元々「両国」と呼ばれていたことに驚く。昭和二十年の東京大空襲で焼け野原となり、戦後復興の過程で両国橋を挟んで、それまでの東両国(墨田区)と西両国(東日本橋)の地名が紛らわしいとして、「両国」を川向こうに持っていってしまったのだという。

繁栄する西両国
 大震災、そして大空襲に見舞われ、今は見る影もない東日本橋一帯。昔はこの地域が「両国」と呼ばれて両国広小路を中心に殷賑を極めていたという。橋を渡ると回向院があるため、橋向こうはあの世を意味したらしい。
 当時の地図から見てもすぐ近くに横山町や馬喰町がある。いずれも問屋街として「日本橋バビロン」の舞台、立花屋の上顧客として僅かだが紹介されている。
また、主人公が戦後この地を離れて再び訪れた時、この地、東日本橋は横山町馬喰町の問屋街倉庫地帯になっていたと懐かしさより淋しさが込み上げる。
 銀座や浅草よりも多くの人で繁栄したという両国(西両国)は、今や見る影もない。地名を引き継いだ東両国といえども、JR両国駅は閑散、辛うじて国技館に名を残すのみとなっている。
 人があつまらない、あつめられないということは何に起因するのか。

「問屋街の歴史と四十年のあゆみ」(問屋連盟刊)
 小林信彦さんの「日本橋バビロン」を読みつつ、(協)東京問屋連盟が平成元年12月20日に発行した記念誌を頭に浮かべた。
 そうだ!あの記念誌には多くの忘れてはならない大事なことが詰まっているはずだ、この思いである。ともすれば、世の中の変遷に惑わされ、また「新しいこと」を、「変化」を良しとする風潮がある。過去の十年が今では4,5年、いや一年ともなるスピードの時代である。
 とは言いながら、大震災や大空襲で灰燼に帰した馬喰町横山町問屋街を見事に復興させた力は、決して偶然の産物ではない。「流通革命」や「経済のグロバリゼーション」などとは比較にならない焦土から這い上がってきたのだ。すべてが灰の中からの出発であった。
今尚、ここ問屋街には、江戸時代以来の老舗企業が繁昌している。その力たるや、まさに敬服に値する。こういった問屋街の歴史を座視するわけにはいかない。

“問屋の国技館”
 同誌に大宅壮一氏の「横山町馬喰町という集団問屋街は、“問屋の国技館である”。力次第では大関にも、横綱にもなれるし、忽ち没落の運命にも陥る。常に全能力を発揮しての力闘が行われている土俵上だ」の一言が紹介されている。
 確かに問屋街興隆に功績のあった多くの店舗、人達が力闘に破れ、力尽きて退場していった。
 「浮沈興亡は激しいが、現在ここに店舗を構えるものが篤と考えねばならないことは、先住問屋に対する感謝の念である。」、
 「先住した多くの問屋が不幸にして次々と倒れたけれど、その倒れた問屋が得意先の吸引や、販路の開拓、商品の改善などあらゆる方面に努力した結果、横山町、馬喰町の信用をかち得たのである。『町の先祖』の恩を忘れるべきでないと同時に、現住問屋は更に一層より良き問屋街として、街の名誉と伝統の誇りを後人に引き継ぐことが、現代商人に課せられた責務であろう」と、四十年史は記している。

戦後復興の中で
 四十年誌の座談会<第一部>で、昭和二十年の戦災から戦後復興へ、そして組合創立40年の昭和六十年までの経済情勢の推移が語られている。
 大空襲は、20年の2月25日が1回目、3月9日から10日にかけての2回目で完全に問屋街が消滅する。疎開されていた人、徴用にとられていた人、軍にいた人、各々が問屋街に戻り、焦土の灰の中から再起していく様子が生き生きと語られている。
 問屋街は、「バビロン」にはならなかったし、ならないだけの理由もあった。何より全国の小売店が問屋街を必要としていたのだ。時代を背負ってきたと言えるであろう。
前記「日本橋バビロン」と併せ読むと、和菓子老舗と問屋街、扱い商品に違いはあるものの、オーナーの事業に対する意欲に大きな隔たりもある。戦後復興の過程で、生活必需品を扱う問屋街の役割において、国民の期待感も比較にならなかったろう。
問屋街の各社が必死になって社業回復に取り組んでいく。少しでも国民生活に貢献したいという強い思いが溢れている。
先人の努力に頭が下がる思いだ。

復興謝恩大商品市
  ー“人があつまる”
 東京問屋連盟設立の契機となったのが、昭和22年12月3,4,5の3日間、全町挙げて行われた復興謝恩大商品市であった。
ものすごくお客が見えた、そこで、それまで別々であった仲間同士、問屋同士が一つにまとまったらどうかということで、組織化が検討され、翌23年1月9日、この日が創立日になったと記されている。実は、そこまで行くのにかなりの紆余曲折もあった模様だが、先人達の粘り強いリーダーシップに言葉もない。
それにしても、“人があつまる”ということは、素晴らしいこと、凄いこと、嬉しいことであることが判る。“人があつまる“ことで、多くの人たちは訳もなくコーフン(興奮)するものだ。
歴史は、人々のコーフンによって組織が興隆し、人々のコーフンが冷めると同時に衰えるという事実を証明している。

“人があつまる”ことで歴史は生まれ変わる。
未来に向けての問屋街
 問屋連盟「四十年史」には、「東京問屋連盟のめざす問屋のまちづくり将来像」なる一文が、東京都中央区企画部長鈴木郁夫氏の名前で掲載されている。
「今日、卸売業の、そしてその集積地としての日本橋地区問屋街が直面している問題点や課題を克服し、二十一世紀に向かって問屋のまちの将来像を描いてみた」とある。
連盟創立六十年を迎える今年、当時の鈴木部長が提起したいくつかの課題を確認することは決して無駄にはなるまい。
主な問題点として、
(1)消費の中心地の移動、分散化や消費志向の変化で売れ筋商品が不透明になってきている。
(2)卸が提供するものと小売店が期待するものとのズレが出てきた。
(3)一回あたりの仕入量が減少している。
(4)仕入先の絞込みや、選別強化が進む。
(5)問屋街は流通在庫のプール機能や需給の調整機能を果たしており、一般化された消費情報と業界情報の収集・加工の基地におわっている。
 などが指摘されている。中でも、懸念材料として
“何でもひと通り揃っているが、気の利いた商品は探しにくいまち”との疑念が呈せられている。
総花的で後追いのイメージが強くなれば、ますますファッションの核心としての「新しさ」や「新鮮さ」が弱まっていくことへの懸念でもある。
小売店の経営とマーチャンダイジングを支援する卸売業としての役割を地域トータルで果たすために!
 小売業者のために経営面での指導、援助、ソフトな情報を創り出す拠点とならねばならない、と強調している。
 「モノを流通させるだけでなく、生活からモノを考えるプロのまち、情報中心の商いのまちへ」、「クリエイティブな卸情報のまち」につくりかえることで、銀座、日本橋、人形町など中央区商業の活性化を支援促進する問屋でなければならないとの提言、いかにも、中央区役所らしい。
 「駐車場は個々の商店の地下を含むプロムナードと一体的運営が行えるよう設定し、壁面後退等による街路の再整備によって、広場とファッション・プロムナードを創出する」。
この構想は問屋街ではなく、ようやく丸の内中通り、日本橋室町通りなど大企業のオフィスビルが犇めく地域で現実となりつつある。
また、「物流は原則として域外にセンターを設置し、オンライン・ネットワークによる商物分離を図る」構想だ。しかし、このことも、その後の問屋街を取り巻く商流の低迷傾向とIT環境の劇的変化で必要がなくなってしまったのである。

問屋街のイメージは悪化してきたか
 「四十年史」における当時の中央区の認識は、「問屋街の定住人口もかってより大幅に減少し、地域の活力、活気がおとろえ、まちとしてのサービス機能(生活関連施設)も不足するなど、生活利便性が大きく後退している」「駐車場スペースの不足による交通、物流の渋滞が著しく、問屋街としての効率性に欠けると共に、まちとしての快適性や文化・公共施設の不足によって、問屋街のイメージが悪化するという悪循環に陥っている」との憂慮を表明している。
 これらの指摘は、決して無視できない。
大規模な投資を伴う問屋街再生事業など行うべきではなかったし、行う必要もなくなった。だが、中央区が憂慮した「問屋街の悪化イメージ」は、20年を経た平成20年において果たして払拭されているのであろうか。このことは、問屋街すべての企業が、改めて問い直さなければならない課題だ。

問屋連盟の果たす役割
 「四十年史」における中央区の東京問屋連盟に掛ける期待は大きい。
「個店の経営、個別企業中心主義では、経営の改善、近代化には限界があり、また、個店の努力がまち全体の活性化に必ずしも直結しない」であろうことが強調されている。
 「卸売業本来の機能の健全な発展を図るためにも、・・・東京問屋連盟がその中核としてますますその機能の発揮が求められる」としている。

問屋街は変わり得たか
 問屋街と隣接していながら衰退した西両国(東日本橋)とは異なり、銀座・日本橋地区は今や日本一の繁華街である。しかし、「四十年史」からのこの20年で世の中はさらに大きく変わった。価値観が変わったのだ。そして、問屋街を見る目も変わった。問屋街は変わったか。
日本橋を覆い隠す高度成長の象徴であった高速道路撤去も計画の俎上に、また2016年の東京オリンピックは環境に配慮したカネのかからない“先進国型オリンピック”にするという構想だという。
巨大な箱物を造り、トータルなファッションコミュニティタウンをぶち上げ、情報だのソフトだの、駐車場設置、物流センターからミュージアム、美術館建設にまで問屋街を拡大させる時代はこの20年間で全て消えうせた。連盟「四十年史」の上に何を付加すれば次なる「百年史」が出来上がるのか、ここからが問屋街、東京問屋連盟の正念場であろう。

真の変化は“これから”だ
 規模拡大を競う時代でも、利益追求型の時代でもなくなってきた。
 問屋街だけではなく、地球全体の環境そのものが大きく変わりつつあることで「世の中・人の価値観」が変わった。もはや過去の経営のモノサシでは通用しない。
 明確な指針を持たないまま、ただ儲けたい、会社を大きくしたい、との願いだけの企業は、老舗といえどもその屋台骨が腐ってしまう。船場吉兆や赤福の社会的信用や暖簾、ブランド・知名度の失墜は無残だ。
 影響力のある人や企業・団体が、小器用な生き方や黙ってやったって消費者には判らない式の手法では、もはや通用しない。うまく売り抜けることなど不可能なのだ。
高収益を上げた会社といえども、結果だけを見て評価されることはない。どのようにして儲けたのか、そのプロセスや努力・工夫が問われ、いくら社外秘といってもその過程が丹念に分析される。要は、「売った、買った」もどのような考え方や狙いで行ったかで異なった評価が下されることになる。
扱い商品は、高級化が決め手でも、薄利が美徳でもなくなる。モノを扱う企業では、モノからのアプローチだけでは、いくら手を変え、品を変えても活路の見えない時代に踏み込んでしまったと言える。

“人があつまる”問屋街
 小売店以上に小売店に品物を卸す問屋街・企業の社会的責任は重い。
 そのためには、問屋街の「小売店に対する使命観」を改めて鮮明に打ち出し、広く世の中に知らしめることだ。すなわち、
問屋街の役割・立場、判断基準を明確にしたビジョンを打ち出す。そして、その使命観への賛同を社会全体、あるいは全世界の人々に求めることで“人があつまる”問屋街を目指したいものだ。
東京問屋連盟:問屋連盟通信:2008/1/1掲載
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