|
|
宿屋四郎兵衛
「ずばり!単刀直言」
(2007.6.20〜2009.5.20)
|
体験編 |
現場力”の真の現場を体験する
プロローグ
7月10日(火)朝8時、福島県喜多方市の講演会場に入り、打ち合わせの後、8時50分から講演をスタート。予定していた通りの内容で順調に進行していた。
話しながら、今朝は変に汗が吹き出ることに気付き始めたのは、9時30分頃。天候は曇り、会場には爽やかな風が吹き込んでおり、特に暑いと感じていたわけではない。いつの間にワイシャツが汗に塗れ、ネクタイにまで沁みこんでいくのが気になりだした。声に張りがなくなり、ヘンだと思い始めるとともに、胸のあたりが急に“痛い”というより“締め付けられる”感じがし始めた。
少し胸を張り、背伸びしつつ歩きながら大きな声を張り上げてみたが、どうもおかしい?9時50分頃には立っていられなくなり、思わず椅子に座り込む事態。10時には少し早いが休憩時間を取らせていただいく。しかし、もう胸の痛みは立ち上がれない状況にまでなっていた。
急遽、会場におられた午後の講師に交代をお願いし別室で休息したものの、もはや座っているのがやっとの状態。幸い近所に病院がある由で主催者の車で送っていただいた。
救急搬送
夥しい汗とは、オーバーな表現ながらあんなに汗をかいた経験はない。そして、胸の締め付けられる苦しさ。もう恥じも外聞も無く病院の医務室のベッドに「とにかく横にならせて」と倒れこんでしまった。
心電図、血圧とも平常ですよ、との病院の診立てながら俄に「ハッと」気が付かれたのか「当病院では治療は無理。直ぐに設備のある総合病院に移って貰います」「救急車を要請しました」。
いつの間にか「気持ちが悪いでしょう」といってワイシャツや下着を脱がせ、身体を拭いてくれていた看護師さんも一緒に、初体験の救急車に。乗り心地の悪さもあって、「どこまで行くの」「会津若松まで」「遠いなぁ、何分くらい」「30分位」。ほとんど夢うつつの応答。埼玉じゃ遠いねぇ、車中で名前、年齢、仕事、住所、電話番号、家族構成など様々な質問があって、その間ひっきりなしに血圧、体温を測る。特に、発症時間についての質問が繰り返される。
多分心筋梗塞です、とは車中であったか、病院に着いてからのことであったかは判然しないが、「へぇ〜」と思ったに過ぎぬ。ただ早くこの苦しさから解放して欲しい、の一念のみ。
会津中央病院
救急車到着と同時に10名以上の人達に取り囲まれ、処置室に搬入されると同時に、眼鏡、時計はもちろん下着も脱がされ、アッという間に「毛を剃らせてもらいます」。準備が整った模様ながら、なかなか次ぎが始まらない。もう胸が痛いのかどうかの記憶も失せている。
うつらうつらながら、何度も自宅の電話番号には誰も出ませんよ、家族に連絡を付けたいのですが?発症時間は?と聞かれる。そうか、今日は「出張するなら友達と行田の古代蓮を見に出かけますよ」と家内が言っていたなぁ、普段から息子も嫁も、仕事中はケータイには出られない。要は家族には連絡が付かないのだ。
ところで、今手術しないとどうなりますか?「自宅の近所の病院が良いでしょうが、発症時間からみて多分あなたの持ち時間は2時間弱ですね、心臓の冠動脈が閉塞状態ですから」、この地から埼玉までとても2時間では帰れない。「とにかくやってください」
カテーテル治療
足の付け根から管を通して、心臓の動脈の血管を膨らませる治療だという。循環器科の主治医さんから詳しく事前に話があったのかどうかは記憶がない。ほとんど夢うつつの中で、「痛いよ」「チクッとするよ」など、いろいろ声を掛けられるが、胸の痛みを除いてくれるなら、どんな痛みにも耐えられるといった心境。
どれくらいの時間が過ぎたのか、手術室には主治医の他に数名の医師もいるようで、処置についての会話が交わされている。会話の様子からはうまく進んでいないようだ、チラッと不安が頭をよぎる。同じことならしっかり診ておいて欲しい!
もう少しですから我慢して、と声が掛かる。多少の安堵感が出たのか吐き気をもよおす。最初は、朝のホテルでの朝食分、次は昨夜の食事分、最後は昨日自宅を出るときのお昼分、ほとんどが消化されていなかったことになる。
今回の出張は、家を出る時から体調が万全ではなかった。胸が痛いなんてことはなかったが、どうも腰が重い感じであったが、これが予兆であったのか。
ICU(中央集中治療室)
“絶対安静”が言い渡される。特に右足は苦しいでしょうが、少しでも動かすと出血しますからね、とのこと。しかし、最初の2日間位は「とても耐えられない心境」だ。2日目から3日目にかけて管を抜いた後の処置が拙かったのか、気が付いたら主治医はじめスタッフが周りを囲みただならぬ気配、血圧がドンドン下がっているようだ。緊迫した主治医の指示が飛んでいる。どうも出血したらしい。
これは「ダメらしい」と観念しながらも意識が遠のく。再び気が付いたら付添いの看護師が「輸血しています。気分どうですか」、どうやら助かったらしい。翌日一杯輸血を続け容態は安定したが、何だか誰か判らない人の血液で生かされているような不思議な気分になる。
重湯から始まり、徐々に硬い普通の食事へ、でも直ぐに次ぎのアクシデントが。食後、鳩尾あたりに耐えられないような鈍痛が走る。胃に鼻から管を入れ直接空気を送り込む、また腸に溜まったガスを抜く、などで少しずつ回復に向かう。手術以上の苦しさだ。
慎重なリハビリ・メニューを続け、ICUを出たのが8月1日、実に22日間お世話になった。この時点でようやく「午前・午後=各200m歩行」までの回復であった。
データ診療(看護師の力)
看護師の動きを通じて「現場力」の実際に触れることができたことは今回のトラブルにおける望外の成果であった。やはり、現場力とは、個々人の力量によるところが実に大きい。同じ徹底教育を受けているといっても一人ひとりの看護力には格段の差があることである。
この病院のCPUは、循環器科を中心に20床。患者の出入りも激しく、終夜治療の末、朝家族が見えることも度々。当然、重症患者が多いだけに看護師の仕事は、データに基づく「判断力」そして「決断力」で患者の生死が左右される。朝9時〜夜8時までと夜9時〜朝8時までの2交代、急患等では随時応援要員が入る。
看護師は、男性もいるが多くは20歳台の女性。既婚者が多くどの女性もしっかり教育されている。患者2に対して看護師1、が基本配置だが勤務前のミーティングで配置変えもあるようだ。
徹底したデータ治療だけに、血圧、体温、酸素供給量、心電図の朝昼晩のチェック、レントゲン、超音波(エコー)検査、CTスキャン等が定期的に入ってくる。血液検査、尿検査、そして治療の中心は点滴である。データに基づき主治医が点滴の変更、量等を指示してくる。少しでも異変があった場合、すかさず真夜中でも主治医に電話連絡、次ぎの指示が飛んでくる。
エピローグ
8月1日午後に一般病棟に移り、リハビリ継続、1週間後ようやくシャワーが許され、そして入浴。
カテーテル治療のその後の状況を診る「カテーテル検査」(17日)があって、ようやく24日に退院の運びとなった。病院側はもう1週間様子を見たい意向もあったようだが、後は自宅療養でお願いした。
今後の治療のために埼玉の病院への紹介状、カルテ、データの移送をお願いし、計46日の及ぶ会津を後にした。
九死に一生を得た思いである。
|
東京問屋連盟:問屋連盟通信:2008/9/20掲載 |
|
|