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宿屋四郎兵衛
「ずばり!単刀直言」
(2007.6.20〜2009.5.20)
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番外編 |
“現場力”は、“組織力”あってこそ
「会津士魂」(早乙女貢著)
ICUに入院していた22日間は、絶対安静で動けなかったこともあり、当然ケータイ、パソコンとも無縁、その上気力的にも仕事のことを考える余裕もない。会津若松は生涯で始めての土地であり、息子が「何か本持ってきてやろうか」と言った時、とっさに早乙女貢の「会津士魂」(文庫版)と言ってしまった。
会津は、秀吉の時代になってから加藤嘉明、蒲生氏郷等が入部しており、「今宿さんは言葉が違うけどどこの出身ですか」と聞かれると「蒲生氏郷と同じ」と答えていたが、会津の人には通じない。「会津弁は聞き辛いでしょう、その点今宿さんの言葉キレイですね」と言われて恐れ入ったが、土地の人は会津のことには意外と詳しくないようだ。
関が原後、上杉景勝を米澤に封じ込んだ徳川幕府は、会津を二代将軍秀忠の庶子であった保科正之を藩主にした。仙台伊達氏に睨みを効かせる意図があったのであろう。爾来、幕末に至るまで、会津藩は藩祖正之の遺言通り、すべてを徳川幕府のために捧げ尽くすことになる。会津は明確なビジョンを持つ特異な藩として存在した。
尾張、紀州、水戸の御三家や一橋、田安、清水の御三卿とも違う独特の藩組織・藩風を持ち、「すべてを徳川家のために」投げ出してしまうことになる。他家からの養子に過ぎない松平容保も藩主となるやこの藩風の人となる。
体力に恵まれない蒲柳の身ながら京都守護職を拝命、孝明天皇の信頼に応え、また十五代慶喜の裏切りに付き合い、結果として薩長勢力の憎しみを一身に背負うことになる。
安倍崩れ
入院中の7月29日は、参議院選挙。ICUで「不在者投票」を行った。身近な問題である年金疑惑や入院中でもあるため高額医療費の問題、また不思議と会津若松にいることから感じる地域格差問題などあり、この一週間は政治に関心が深まった。
安倍・小澤の党首会談も興味深く、とくに小澤氏が「安倍総理」と呼び掛けるのに対し、安倍氏がやや高圧的に「小澤さん」と「党首」を付けない点も気になった。弾みからか「今回の選挙は、小澤さんを採るか、私を選ぶかの信任投票だ」と言ってしまう。
数々の実績を積み上げてきたと自負する安倍総理にとっては、モタモタ発言の小澤氏を圧倒したと信じていたのかどうか。その後、“KY”総理(空気が読めない)と揶揄されたように、あるいは大都市の街頭演説に群がる「おば様達」の握手攻めを「自分への支持」と勘違いしたのか。
国会所信表明後、政権を一気に投げ出した無責任さに自民党としては、彼を病気にせざるを得なかったのではないか。まさか、「安倍続投」を強く支持した麻生幹事長ですら自分の政権奪取戦略の中に安倍のこの暴挙は予想外であったろう。
組織としての自民党は異常事態であるにも関わらず、ルーチンワークのように「総裁選挙」を挙行、組織が徳川幕府のように瓦解することはないかに見える。が、一途に勝ち馬に乗る党員の姿からは「組織力」が喪失、安倍崩れ現象が懸念される。
慶喜将軍の変節
安倍さんの政権投げ出しは、徳川十五代慶喜の姿を彷彿とさせる。
慶喜は、水戸家の出身で一橋家を継ぐ。名君の誉れ高く、十四代将軍の座を紀州慶福と争うも井伊直弼の剛腕に潰える。その後、政事総裁職、将軍後見職などを歴任し、幕末において、実質上幕府の代表としての実権を握った。幕府の執政権は、依然老中が保持していたもののすでに、組織力は失われていた。
十四代家茂の死で幕府全体の輿望を担って将軍職に着くものの、もはや、朝廷・薩長への流れは如何ともし難く、王政復古、大政奉還へと進んでいく。司馬遼太郎さんの表現を借りれば、慶喜は「政権を破れ草履を捨てるごとく、御所の塀の中に投げ込む」ことになる。
安倍さんと似た政権放棄の形である。
慶喜は、「病気」とは言わないまでも「朝敵」と言われることに恐れ慄き、大坂城に拠っての鳥羽伏見の戦いに緒戦は意気も挙がったが、圧倒的優位の戦力を擁しながら、結局無断で大坂城を脱出してしまう。江戸に逃げ帰るのである。すでに、組織としての幕藩体制は崩壊している。
悲劇は、この戦いの主戦力であり、守護職時代の恨みを一身に背負った会津藩である。しかも、藩主容保は慶喜の強引な要請で、家来達への連絡もなく大坂城を後にする。藩主を失い、負け戦の凄惨さの中、徳川に味方すべき親藩・譜代の裏切りも相次ぎ、心身ともに疲れ果てた会津藩兵は散り散りになりつつ江戸に向かって敗走する。
会津は、明確なビジョンのもと現場力の強さ故に、守るべき徳川家消滅にもめげず藩祖正之の遺言通り、鶴ヵ城落城、飯盛山の悲劇へと連なる。
「宿沢広朗‐運を支配した男」(加藤仁著・講談社)
一般病棟に移って、ようやく読書欲も出てきた。甲子園の時期でもあり、TVに邪魔されることが続いたものの、1日1冊励行を心がけた(夜は9時消灯で8時には寝てしまう毎日)。
そんな時、標題の1冊を見舞いに差し入れていただいた。早稲田の名SOとして日本選手権では社会人を連覇した立役者であり、卒業後は、社会人ラグビー界に進まず、バンカーの道を選んだ異色のラガーマンである。
宿沢さんは、平成18年6月17日同僚とともに赤城山の外輪山・鈴ヶ岳の頂上を目指した。そして、不運にも山頂で倒れる。救急ヘリで群馬大学付属病院に運ばれたものの、最新医療による蘇生術も間に合わず帰らぬ人となった。死因は、心筋梗塞。享年55歳であった。死亡時は、三井住友銀行専務取締役という要職を占める超エリートであった。
宿沢の選手としての活躍は大学時代で終わるが、バンカーとして頭取の座を目指すと同時に、日本ラグビー界の発展に対しても大きな野望を秘めていたようだ。ラグビー界にとっても惜しまれる逸材であった。
1989年5月、宿沢がバンカーの傍ら代表監督をつとめた日本代表チーム「ジャパン」が、テストマッチで「28-24」と世界の強豪スコットランドを破るという歴史的偉業を成し遂げた。昭和46年以来18年間、日本代表は一度も世界の八強に勝つことはなかっただけに宿沢のリーダーとしての実力に多くのラグビーファンが瞠目した。
現場力は組織力だ
「勝たなければならない」「善戦で終わってはいけない」というのが宿沢の口癖であったという。さらに、「TEST MATCH」(自著・講談社刊)には
「“絶対に勝て”ということより“どうやって”勝つのかを考えて指導することであり、“がんばれ”というなら“どこでどのように”具体的かつ理論的にどう“がんばるのか”指示することではないか」と記している。
バンカーとして、ロンドンにおいて自ら全戦全勝のディーラーとして活躍、リーダーとしては部下に厳しく、現場における部下の「判断」と「決断」の能力を重視、サインがなくても高度なチームプレーが可能になるように部下を鍛えた。
スタンドオフ(SO)として一瞬に楕円球を支配、サインが無くても自然に身体が反応していくラグビーの醍醐味をビジネス上でも感じていたのではないか。「現場力の強さこそが強固なチーム(組織)をつくり上げる」のだ。 |
東京問屋連盟:問屋連盟通信:2008/10/1掲載 |
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